「おや、目が覚めたようだね。具合はどうだい? |墨逸《モーイー》」
|墨余穏《モーユーウェン》はムクっと起き上がり、その優しい声の主を見る。
そこには、木製のお盆を持ちながら、目尻にたっぷりの皺を寄せて微笑む長老が立っていた。 久しぶりの再会に、思わず顔が綻ぶ。「|尊丸《ズンワン》和尚! 久しぶりだな! 元気だったか?」
「いや〜、また君に会えるなんて夢のようだよ」
「はははっ。俺も夢のようなんだが……、何がどうなっているんだ? 説明してくれないか?」
「そうだね。でもまずは食事を摂りなさい」
|尊丸《ズンワン》はそう言いながら、朝食が乗った木製のお盆を|墨余穏《モーユーウェン》の側に置く。それから熱い白茶を二つの茶呑みに注ぎ、|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》と向かい合うように正座した。
「今朝、裏の墓地を清掃していたら何か音がしたんだよ。気になってその音がした方へ向かったら、君が父上の墓の前で倒れていたんだ。君に近づくと息をしているから慌てて弟子たちを呼んで、君をここに連れてきたってわけさ……。何か心当たりはないのかい?」
「……いや、何にも。気づいたらここで寝かせてもらっていただけだ」 甦った理由がさっぱり分からず、|墨余穏《モーユーウェン》は小さく溜め息をついた。しばらく間を置いて、|墨余穏《モーユーウェン》は自分が死んでどれだけ経ったか|尊丸《ズンワン》に尋ねる。 「えっと〜……、十年……経ったのかな」 「十年?! そんなに経ってるのか? じゃ、色々と変わってんじゃないのか?」 |墨余穏《モーユーウェン》の質問に|尊丸《ズンワン》の表情が曇りだす。 どこか言い辛そうに、大きな鼻息を出して|尊丸《ズンワン》が口を開いた。 「……最近、|華陰山《かいんざん》にある|三神寳《さんしんほう》が何者かに盗まれたんだ」「は? |三神寳《さんしんほう》が盗まれた?! あんな崖の上にある物をどうやって……。超人でも現れたのか?!」
|墨余穏《モーユーウェン》は目を見開き驚愕する。
|尊丸《ズンワン》はコクっと頷きながら続けた。「そうだ。あの強力な呪符の結界が切れたことによって、この|天台山《てんだいざん》にある土地の守護術も、崩れ始めている。夜になると妖魔や屍がよく出没するようになって、|寒仙雪門《かんせんせつもん》を筆頭に各門派たちは、毎日どこかしらへ行っているようだよ」
寒仙雪門と聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》はある人物を思い出した。
あの凍てつくような眼差しを向ける眉目秀麗な男が、淡く薄っすらと|墨余穏《モーユーウェン》の脳裏を過ぎる。「|師玉寧《シーギョクニン》……」
|墨余穏《モーユーウェン》は思わずその名を口から漏らした。
|尊丸《ズンワン》は|師玉寧《シーギョクニン》の名を聞いて、最近の寒仙雪門について話し出す。「寒仙雪門の門主だった|師白之《シーバイチー》道長が腰を悪くされてね、今は|師玉寧《シーギョクニン》道士が門主となって門派の統治を担っておられるよ」
「へぇ〜。|賢寧《シェンニン》兄、随分と出世したんだな」
|墨余穏《モーユーウェン》は感心しながら布団を丁寧に畳み、床に腰を下ろした。
「ところで、|尊丸《ズンワン》和尚。真っさらな呪符、余ってない? 少し力を試したいんだ」
「ほう。それなら……」
|尊丸《ズンワン》はそう言って、|墨余穏《モーユーウェン》を道観に案内した。
尊仙廟では遺品をいくつか預かり、道観の脇にある棚に一つ一つ祀るように保管している。そこに|墨余穏《モーユーウェン》の育ての父・|豪剛《ハオガン》が残した遺品があるという。 |墨余穏《モーユーウェン》は|尊丸《ズンワン》の後ろに続き、急勾配な階段を登って、手入れの行き届いた道観に足を踏み入れた。「ここで少し待っていてくれるかな」
|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》をその場で座らせ、奥の棚へと歩いていく。
|墨余穏《モーユーウェン》は屋根まで聳え立つ大きな釈迦の銅像を眺め、|豪剛《ハオガン》とここに来た幼少期の記憶を辿る━︎━︎。(あの時、『悪いことしたら、このお釈迦様に天罰を下されるぞ!』って父ちゃんに言われたんだっけ……)
|墨余穏《モーユーウェン》はその光景を少し懐かしむように辺りを見渡した。
すると、そこに|尊丸《ズンワン》が大きめな木箱を抱えてやって来る。「|墨逸《モーイー》、待たせたね。|豪剛《ハオガン》道長の遺品だよ。開けてごらん」
「ありがとう」
木箱の蓋に手を当てると、僅かな電流が走った。
|墨余穏《モーユーウェン》は咄嗟に手を引っ込めたが、|尊丸《ズンワン》に「守護術の鍵が開いただけだよ」と言われ、もう一度木箱の蓋を手に取る。 そしてゆっくりと中身を確認すると、そこには|豪剛《ハオガン》が生前使っていた墨と筆と白い真っさらな呪符、そして生きていくには十分な紙幣が大量に入っていた。 中身を全て取り出したあと、木箱の底に文字が書かれた一枚の紙があった。字の読める|墨余穏《モーユーウェン》は、その紙を手に取って読み始める。「えーっと、『大事に使うんだぞ、|墨逸《モーイー》。自分で作った呪符で死んだら許さねーからな! 父ちゃんより』だって。はははっ。父ちゃんらしいよ。なぁ、|尊丸《ズンワン》和尚。これ、父ちゃんからいつ頃預かったの?」
「これは……、|豪剛《ハオガン》道長が亡くなるひと月ぐらい前かな。『これぐらいしか倅に残せるものはねぇ!』なんて、笑いながら話しておられてね」
|墨余穏《モーユーウェン》は込み上げてくる感情をグッと堪え、|尊丸《ズンワン》にしばらくの世話代と様々な礼を込めて、入っていた紙幣の半分を渡した。
「|墨逸《モーイー》。こんなにいただけないよ……。これは、|豪剛《ハオガン》道長が君の為に……」
「だから渡すんだよ。|尊丸《ズンワン》和尚は俺を助けてくれた。他のお弟子さんらも俺を助けてくれた。父ちゃんはよく、人にはちゃんとされた分以上に礼をしろと言っていた。しばらく、ここに居させてもらうかもしれない。多めに受け取ってくれ」
|尊丸《ズンワン》の目に光るものがぼんやりと浮き出てくる。
それは、紙幣が手に入ったからではない。 この親子に特別な思いがあるからだ。 |尊丸《ズンワン》は目に溜まった一滴の水を拭い、胸元から取り出した白い布に、預かった紙幣を包んだ。「少し、|豪剛《ハオガン》道長を思い出してしまってね。確かに御恩を受け取ったよ。ありがとう。甦った|墨逸《モーイー》も、優しいままで良かった。|豪剛《ハオガン》道長もきっと喜んでおられる」
「ならいいんだけど。はははっ」
|墨余穏《モーユーウェン》はしばらくここで世話になることを伝え、先程まで居た部屋に戻り、今持っている呪符力を試し始めた。
記憶にある限りの篆書や記号を書き出し、|貼懸符《ちょうけんぷ》や図符といった様々な呪符を作る。一運筆で霊符を書き連ねていくと、段々と自分の持つ呪符の霊力が強くなっていくのが分かる。 |墨余穏《モーユーウェン》は呪符を回転させたり、浮かしたり、軽く飛ばしたり、引き寄せたり、ありとあらゆる動きを指で確かめた。(うん。霊力は死ぬ前と変わらないな。これなら、またあの汚ねぇ|鴉《カラス》と戦える)
負けたつもりはさらさら無いが、決闘の途中で死んでしまった以上、|青鳴天《チンミンティェン》の勝利は否めない。
(覚えてろよ……クソ|青鳴天《チンミンティェン》)
汚名返上だ! と|墨余穏《モーユーウェン》は意気込み、また呪符を書き連ねていく。
しばらくすると日が暮れ、月明かりが|墨余穏《モーユーウェン》の顔を照らし出した。
駆け出しの頃、こうして夜な夜な文字の練習をしていたことを思い出す。 それから|墨余穏《モーユーウェン》は呪符を百枚ほど書き連ねたところで筆を置き、窓から雲一つない透き通る夜空を見上げた。 亡き|豪剛《ハオガン》と、そのうち会うことになるであろう|師玉寧《シーギョクニン》に想いを馳せて…。甦ってから三日経った昼下がり、|墨余穏《モーユーウェン》は新しい衣を買いに、|尊丸《ズンワン》と下町へ向かった。 「ここは何も変わってないんだなぁ〜」 「そうだね、ここは相変わらず活気のある人ばかりだよ」 この下町は、古くから商いで賑わう地域で|墨余穏《モーユーウェン》の顔馴染みも多い。|墨余穏《モーユーウェン》は周りからどんな顔をされるか不安だったが、そんな不安は一瞬で吹き飛んだ。 「おい! 嘘だろ! |墨逸《モーイー》じゃないか?! お前、どこに行ってたんだよ!」「はははっ。久しぶり! 魚屋の亭主!」「あら〜、|墨逸《モーイー》じゃない! 相変わらずの美男子ね」「はははっ。甘露の女将さんも、相変わらず美人さんだよ!」「やっぱ、お前が死んだなんて嘘だったんだな! おい! これ持ってくか?」「はははっ。ありがとう! 串屋のおいちゃん! この鳥もくれる?」 他にも、新しい符を書いてくれだの、婿に来て欲しいだの、皆寄ってたかって|墨余穏《モーユーウェン》を囲み出した。 こうして愛嬌のある|墨余穏《モーユーウェン》は、誰かと会う度に次々と声を掛けられ、相変わらずの存在感を醸し出していた。 しばらく歩くと|豪剛《ハオガン》も行きつけだった呉服屋に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》と|尊丸《ズンワン》は中へ入る。 すると、|墨余穏《モーユーウェン》が戻ってきたと噂を聞きつけていた大旦那が、涙を流しながら|墨余穏《モーユーウェン》を思いっきり抱きしめた。「|豪剛《ハオガン》のように、ええ男になったの〜、|墨逸《モーイー》! あんな小さくか弱かったのになぁ。|豪剛《ハオガン》もきっと喜んどるわ〜。ワシも嬉しすぎて、もういつ死んでも構わんな!」「はははっ。だめだめ。俺の衣、大旦那に死ぬまで仕立ててもらわなきゃいけないから!」 そう言葉を交わし、|墨余穏《モーユーウェン》は|豪剛《ハオガン》がいつも着ていた黒色の衣を、数点選定してもらった。 |墨余穏《モーユーウェン》は黒が映える男だ。肌白さがより衣の黒を引き立てているようにも見える。 玉佩をつける紐だけを白にし、無駄を無くして品よくまとめる様は|豪剛《ハオガン》譲りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》が鏡を見ていると、背後から大旦那が話し始める。 「|豪剛《ハオガン》はよく言ってい
ゆっくりと目を開け、何度か瞬きを繰り返すと、何やら見覚えのある木目の天井が見えた。 (ここは……) |墨余穏《モーユーウェン》は、まだ眠気の取れない瞼を何度も閉じ、思考を凝らしながら周りの空気を感じ取る。 線香の香りと、長年染みついた独特の生活臭が入り混じった懐かしい香り。 ここは間違いなく、前世で世話になった|尊仙廟《そんせんびょう》だ。 (でも、俺は……死んだんじゃないのか? どうしてここに居るんだ? 何が起きてる? ) やはり|墨余穏《モーユーウェン》は、今の状況を把握し切れないでいた。 それもそのはず。|墨余穏《モーユーウェン》は以前、邪符教の|鳥鴉盟《ウーヤーモン》・|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、使用した呪符の反動で命を落としていたからだ。 |墨余穏《モーユーウェン》は、自分の手で頬を軽く叩いてみる。 やはり五感は全て正常のようだ。 腕を上げ、手のひらを眺めていると、床を踏み鳴らす音とお皿を揺らす音が同時に近づいてきた。「おや、目が覚めたようだね。具合はどうだい? |墨逸《モーイー》」 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと起き上がり、その優しい声の主を見る。 そこには、木製のお盆を持ちながら、目尻にたっぷりの皺を寄せて微笑む長老が立っていた。 久しぶりの再会に、思わず顔が綻ぶ。「|尊丸《ズンワン》和尚! 久しぶりだな! 元気だったか?」「いや〜、また君に会えるなんて夢のようだよ」「はははっ。俺も夢のようなんだが……、何がどうなっているんだ? 説明してくれないか?」「そうだね。でもまずは食事を摂りなさい」 |尊丸《ズンワン》はそう言いながら、朝食が乗った木製のお盆を|墨余穏《モーユーウェン》の側に置く。それから熱い白茶を二つの茶呑みに注ぎ、|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》と向かい合うように正座した。「今朝、裏の墓地を清掃していたら何か音がしたんだよ。気になってその音がした方へ向かったら、君が父上の墓の前で倒れていたんだ。君に近づくと息をしているから慌てて弟子たちを呼んで、君をここに連れてきたってわけさ……。何か心当たりはないのかい?」 「……いや、何にも。気づいたらここで寝かせてもらっていただけだ」 甦った理由がさっぱり分か
幾重にもかかる真っ白な山雲が、その名の通りこの華やかな情景に映える険しい|華陰山《かいんざん》を覆う。 人が無闇矢鱈に入山できる山ではないのだが、この日だけは山雲をいとも簡単に切り裂く異国の盗人術師たちが、ここを訪れていた。 「おい! 後ろに続け! 離れるなよ!」 『はい!』 上に登れば登るほど酸素は薄く、気温も低温傾向にある。 しかし、この者たちは鍛錬を積み重ねた強靭たちばかりが集められている為、何の心配もいらないようだ。 一人の男が言う。「|阿可《アーグァ》様! あそこに廟があります!」「よし、見つけたな! そこへ向かうぞ!」 |突厥《とっけつ》の|阿可《アーグァ》たちは目先にある廟へ向かって険しい岩場を進む。 様々な木が生い茂り、視界を遮るように霧が立ち込めている。 進むのも後戻りをするのも困難な場所だが、彼らは行く手を止めようとしない。木枝や葉を踏み鳴らす音だけが響き、皆黙々と登り続けると、突厥たちはようやく山の頂上の岩場に聳え立つ、小さな廟に到着した。「本当にここなんですか?」「あぁ。間違いない。早く扉を壊せ」 |阿可《アーグァ》の命令に従い、数人の下の者たちが、硬く封じられた扉を抉じ開ける。しかし、扉自体は開くものの強力な呪符で護られているせいか、中に踏み込む事ができない。 |阿可《アーグァ》は「チッ」と舌打ちしながら、預かっていた一枚の呪符を胸元から取り出し、扉の中に投げ入れた。 すると、たちまち呪符の効力が消え、ただの物小屋のような空間が広がり始めた。「さすがです! |阿可《アーグァ》様!」 下の者たちから煽てられて気分の良い|阿可《アーグァ》は、颯爽と中に入り、この廟に祀られていた|三神寳《さんしんほう》の一つ・|神漣剣《しんれんけん》を手に取る。「これが|呂熙《リューシー》殿が欲しいと言っていた神剣か……」 ひとしきり眺めた後、|阿可《アーグァ》は|神漣剣《しんれんけん》の隣に置いてあった符術書・|万墨帛書《ばんぼくはくしょ》と、青銅製の鳥の形をした銅鏡・|神翼鏡《しんよくきょう》も手に取って胸元に仕舞った。|阿可《アーグァ》は踵を返そうと足元に目を遣ると、石段に何やら文字が彫られているのに気付いた。 しかし、|阿可《アーグァ》は突厥の人間な為、この国の文字が読めない。「おい! この文字を読める