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第一話  甦生

Auteur: 春埜馨
last update Dernière mise à jour: 2025-09-01 12:18:11

 ゆっくりと目を開け、何度か瞬きを繰り返すと、何やら見覚えのある木目の天井が見えた。

 (ここは……)

 |墨余穏《モーユーウェン》は、まだ眠気の取れない瞼を何度も閉じ、思考を凝らしながら周りの空気を感じ取る。

 線香の香りと、長年染みついた独特の生活臭が入り混じった懐かしい香り。

 ここは間違いなく、前世で世話になった|尊仙廟《そんせんびょう》だ。

 (でも、俺は……死んだんじゃないのか? どうしてここに居るんだ? 何が起きてる? )

 やはり|墨余穏《モーユーウェン》は、今の状況を把握し切れないでいた。

 それもそのはず。|墨余穏《モーユーウェン》は以前、邪符教の|鳥鴉盟《ウーヤーモン》・|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、使用した呪符の反動で命を落としていたからだ。

 |墨余穏《モーユーウェン》は、自分の手で頬を軽く叩いてみる。

 やはり五感は全て正常のようだ。

 腕を上げ、手のひらを眺めていると、床を踏み鳴らす音とお皿を揺らす音が同時に近づいてきた。

「おや、目が覚めたようだね。具合はどうだい? |墨逸《モーイー》」

 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと起き上がり、その優しい声の主を見る。

 そこには、木製のお盆を持ちながら、目尻にたっぷりの皺を寄せて微笑む長老が立っていた。

 久しぶりの再会に、思わず顔が綻ぶ。

「|尊丸《ズンワン》和尚! 久しぶりだな! 元気だったか?」

「いや〜、また君に会えるなんて夢のようだよ」

「はははっ。俺も夢のようなんだが……、何がどうなっているんだ? 説明してくれないか?」

「そうだね。でもまずは食事を摂りなさい」

 |尊丸《ズンワン》はそう言いながら、朝食が乗った木製のお盆を|墨余穏《モーユーウェン》の側に置く。それから熱い白茶を二つの茶呑みに注ぎ、|尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》と向かい合うように正座した。

「今朝、裏の墓地を清掃していたら何か音がしたんだよ。気になってその音がした方へ向かったら、君が父上の墓の前で倒れていたんだ。君に近づくと息をしているから慌てて弟子たちを呼んで、君をここに連れてきたってわけさ……。何か心当たりはないのかい?」

「……いや、何にも。気づいたらここで寝かせてもらっていただけだ」

 甦った理由がさっぱり分からず、|墨余穏《モーユーウェン》は小さく溜め息をついた。しばらく間を置いて、|墨余穏《モーユーウェン》は自分が死んでどれだけ経ったか|尊丸《ズンワン》に尋ねる。

「えっと〜……、十年……経ったのかな」

「十年?! そんなに経ってるのか? じゃ、色々と変わってんじゃないのか?」

 |墨余穏《モーユーウェン》の質問に|尊丸《ズンワン》の表情が曇りだす。

 どこか言い辛そうに、大きな鼻息を出して|尊丸《ズンワン》が口を開いた。

「……最近、|華陰山《かいんざん》にある|三神寳《さんしんほう》が何者かに盗まれたんだ」

「は? |三神寳《さんしんほう》が盗まれた?! あんな崖の上にある物をどうやって……。超人でも現れたのか?!」

 |墨余穏《モーユーウェン》は目を見開き驚愕する。

 |尊丸《ズンワン》はコクっと頷きながら続けた。

「そうだ。あの強力な呪符の結界が切れたことによって、この|天台山《てんだいざん》にある土地の守護術も、崩れ始めている。夜になると妖魔や屍がよく出没するようになって、|寒仙雪門《かんせんせつもん》を筆頭に各門派たちは、毎日どこかしらへ行っているようだよ」 

 寒仙雪門と聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》はある人物を思い出した。

 あの凍てつくような眼差しを向ける眉目秀麗な男が、淡く薄っすらと|墨余穏《モーユーウェン》の脳裏を過ぎる。

「|師玉寧《シーギョクニン》……」

 |墨余穏《モーユーウェン》は思わずその名を口から漏らした。

 |尊丸《ズンワン》は|師玉寧《シーギョクニン》の名を聞いて、最近の寒仙雪門について話し出す。

「寒仙雪門の門主だった|師白之《シーバイチー》道長が腰を悪くされてね、今は|師玉寧《シーギョクニン》道士が門主となって門派の統治を担っておられるよ」

「へぇ〜。|賢寧《シェンニン》兄、随分と出世したんだな」

 |墨余穏《モーユーウェン》は感心しながら布団を丁寧に畳み、床に腰を下ろした。

「ところで、|尊丸《ズンワン》和尚。真っさらな呪符、余ってない? 少し力を試したいんだ」

「ほう。それなら……」

 |尊丸《ズンワン》はそう言って、|墨余穏《モーユーウェン》を道観に案内した。

 尊仙廟では遺品をいくつか預かり、道観の脇にある棚に一つ一つ祀るように保管している。そこに|墨余穏《モーユーウェン》の育ての父・|豪剛《ハオガン》が残した遺品があるという。

 |墨余穏《モーユーウェン》は|尊丸《ズンワン》の後ろに続き、急勾配な階段を登って、手入れの行き届いた道観に足を踏み入れた。

「ここで少し待っていてくれるかな」

 |尊丸《ズンワン》は|墨余穏《モーユーウェン》をその場で座らせ、奥の棚へと歩いていく。

 |墨余穏《モーユーウェン》は屋根まで聳え立つ大きな釈迦の銅像を眺め、|豪剛《ハオガン》とここに来た幼少期の記憶を辿る━︎━︎。

 (あの時、『悪いことしたら、このお釈迦様に天罰を下されるぞ!』って父ちゃんに言われたんだっけ……)

 |墨余穏《モーユーウェン》はその光景を少し懐かしむように辺りを見渡した。

 すると、そこに|尊丸《ズンワン》が大きめな木箱を抱えてやって来る。

「|墨逸《モーイー》、待たせたね。|豪剛《ハオガン》道長の遺品だよ。開けてごらん」

「ありがとう」

 木箱の蓋に手を当てると、僅かな電流が走った。

 |墨余穏《モーユーウェン》は咄嗟に手を引っ込めたが、|尊丸《ズンワン》に「守護術の鍵が開いただけだよ」と言われ、もう一度木箱の蓋を手に取る。

 そしてゆっくりと中身を確認すると、そこには|豪剛《ハオガン》が生前使っていた墨と筆と白い真っさらな呪符、そして生きていくには十分な紙幣が大量に入っていた。

 中身を全て取り出したあと、木箱の底に文字が書かれた一枚の紙があった。字の読める|墨余穏《モーユーウェン》は、その紙を手に取って読み始める。

「えーっと、『大事に使うんだぞ、|墨逸《モーイー》。自分で作った呪符で死んだら許さねーからな! 父ちゃんより』だって。はははっ。父ちゃんらしいよ。なぁ、|尊丸《ズンワン》和尚。これ、父ちゃんからいつ頃預かったの?」

「これは……、|豪剛《ハオガン》道長が亡くなるひと月ぐらい前かな。『これぐらいしか倅に残せるものはねぇ!』なんて、笑いながら話しておられてね」

 |墨余穏《モーユーウェン》は込み上げてくる感情をグッと堪え、|尊丸《ズンワン》にしばらくの世話代と様々な礼を込めて、入っていた紙幣の半分を渡した。

「|墨逸《モーイー》。こんなにいただけないよ……。これは、|豪剛《ハオガン》道長が君の為に……」

「だから渡すんだよ。|尊丸《ズンワン》和尚は俺を助けてくれた。他のお弟子さんらも俺を助けてくれた。父ちゃんはよく、人にはちゃんとされた分以上に礼をしろと言っていた。しばらく、ここに居させてもらうかもしれない。多めに受け取ってくれ」

 |尊丸《ズンワン》の目に光るものがぼんやりと浮き出てくる。

 それは、紙幣が手に入ったからではない。

 この親子に特別な思いがあるからだ。

 |尊丸《ズンワン》は目に溜まった一滴の水を拭い、胸元から取り出した白い布に、預かった紙幣を包んだ。

「少し、|豪剛《ハオガン》道長を思い出してしまってね。確かに御恩を受け取ったよ。ありがとう。甦った|墨逸《モーイー》も、優しいままで良かった。|豪剛《ハオガン》道長もきっと喜んでおられる」

「ならいいんだけど。はははっ」

 |墨余穏《モーユーウェン》はしばらくここで世話になることを伝え、先程まで居た部屋に戻り、今持っている呪符力を試し始めた。

 記憶にある限りの篆書や記号を書き出し、|貼懸符《ちょうけんぷ》や図符といった様々な呪符を作る。一運筆で霊符を書き連ねていくと、段々と自分の持つ呪符の霊力が強くなっていくのが分かる。

 |墨余穏《モーユーウェン》は呪符を回転させたり、浮かしたり、軽く飛ばしたり、引き寄せたり、ありとあらゆる動きを指で確かめた。

 (うん。霊力は死ぬ前と変わらないな。これなら、またあの汚ねぇ|鴉《カラス》と戦える)

 負けたつもりはさらさら無いが、決闘の途中で死んでしまった以上、|青鳴天《チンミンティェン》の勝利は否めない。

 (覚えてろよ……クソ|青鳴天《チンミンティェン》)

 汚名返上だ! と|墨余穏《モーユーウェン》は意気込み、また呪符を書き連ねていく。

 しばらくすると日が暮れ、月明かりが|墨余穏《モーユーウェン》の顔を照らし出した。

 駆け出しの頃、こうして夜な夜な文字の練習をしていたことを思い出す。

 それから|墨余穏《モーユーウェン》は呪符を百枚ほど書き連ねたところで筆を置き、窓から雲一つない透き通る夜空を見上げた。

 亡き|豪剛《ハオガン》と、そのうち会うことになるであろう|師玉寧《シーギョクニン》に想いを馳せて…。

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